ふ る さ と 再 発 見 講 座 13 


             in 高崎市

  駿府城跡
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 駿河大納言忠長卿の書状の年次について
 

  (釈文)        
    一筆令啓候仍於貴寺
    万部被 仰付之由御
    苦労共候内々我等も
    可参之由存候處ニ  
    崇源院様御玉屋申付候
    儀達 上聞於当地
    御佛事可執行之由
    御意ニ付而無其儀就は
    三枝伊豆守差遣候委細
    口上ニ申含候恐々謹言
         駿河大納言
     九月十一日 忠長(花押)
     増上寺
        座下 


  この忠長書状(群馬・大信寺)に関して、第13回ふるさと再発見講座「駿河大納言忠長卿」の解説で、「寛永九年、蟄居先の当地(甲府)から崇源院の菩提寺へ出した七回忌法要に関するもののようで、忠長の直筆か」としたが、『二〇一一年NHK大河ドラマ特別展 江〜姫たちの戦国〜』の図録では、寛永五年の三回忌法要に関する書状とする。根拠は、以下のとおりである。
 祐天寺(東京都目黒区)に伝存する宮殿(厨子形式の mausoleum )は、平成の修復に伴い、屋根の中央構造柱に、次のような墨書銘が発見され、崇源院のものであることが判明した。この宮殿が忠長書状の「崇源院様御玉屋」であることの考証は図録に譲る。

    寛永五年
     辰九月拾五日御建立
     宗(崇ヵ)源院様御玉屋


 『徳川実紀』によれば、寛永五年、忠長は家光の日光社参に陪従し(四月二十二日)、帰府後、就封の辞見を行い(六月二日)、封地の駿河へ赴き、七夕の賀物を献上する(七月七日)。翌年、秀忠とともに本丸に渡り、家光の茶事・観能の御相伴にあずかる(正月二十七日)。寛永五年、封地を離れる参勤の月日は不明ながら、崇源院の三回忌法要時に忠長が駿河に居た可能性はきわめて高く、書状の「当地」は駿河で、「崇源院様御玉屋申付」とは、宮殿の造営を申し付けたことを意味しているようである。三枝伊豆守守昌は、『寛政重修諸家譜』によれば、元和八年、父昌吉とともに忠長付となっている。三回忌法要の前日、江戸城では、家光が尾水両卿及び藤堂和泉守を従えて西の丸に渡り、秀忠点前の茶を喫している。この茶事は内々の供養なのかどうか、わからない。
 同図録には、もう一通の忠長書状(京都・金戒光明寺)が紹介されているが、釈文は以下の通りである。

    為当地御見廻御使
    僧殊一束一巻
    送給候誠遠路御
    念入候之段令欣悦候
    猶期後信之時候 
    恐々謹言
       駿河大納言
     十月十日 忠長(花押)
     金戒光明寺殿


 書体は大信寺の書状とほぼ同じである。本館の従前の解説のように、大信寺の書状を寛永九年の甲府蟄居中のものとすれば、蟄居中に右筆は置かないだろうから、自筆の可能性が高くなると解したが、寛永五年とすれば、この可能性は低くなる。
 金戒光明寺の書状も、崇源院三回忌法要に関するものとしたいが、この文言だけでは決定できない。ただ、金戒光明寺には、春日局建立による崇源院(江)及び峯厳院(忠長)の宝筺印塔二基が現存し、書状のように、京都から当地まで僧侶が一束一巻(経巻ヵ)を携えて来るのは、特別な目的がなければならぬはずで、この目的を三回忌法要のためとするのは自然な流れであろうが、結論は保留しておく。忠長と金戒光明寺との関係を含め、今後の課題である。また、増上寺宛の「座下」と金戒光明寺宛の「殿」には、書札礼として、どのような相違があるのか、よくわからない。
 なお、大信寺の書状について、従前の釈文には、数ヶ所、誤謬があるので、本釈文のように訂正する。



 
 平成二十二年十二月四日(土)、高崎市労使会館において、百五十名を越える参加者を得て、第十三回ふるさと再発見講座「駿河大納言忠長卿」を開催しました。
 はじめに、大信寺文書等に基づき、文書館から以下のとおり(別掲)概説し、引き続き、安藤綾信氏(御家流茶道十六世宗家/安藤家御家流香道十一世家元)による、旧高崎藩主安藤家伝来の遺品や逸話をまじえた講演が行われ、熱心な質疑応答がありました。講演後、忠長卿の墓前で焼香し、天樹院(千姫)奉納の袈裟(秀頼の陣羽織を裁ち直したもの)など、大信寺伝来の忠長卿の貴重な遺品を拝見しました。
 翌五日(日)、小春日和のもと、忠長卿追福茶会が例年のとおり大信寺本堂で催され、金地院崇伝宛安藤重信消息の掛物を床に濃茶が、奈良絵を床に薄茶が、それぞれ振る舞われ、あわせ、喜撰法師の歌(わかいほは みやこのたつみ しかそすむ よをうちやまと ひとはいふなり)を踏まえた聞香が行われました。
 忠長卿は、寛永十年十二月六日、高崎城内で自刃し、本年は三百七十七年遠忌にあたります。
 


 画像:安藤綾信氏写真
講師 : 安藤綾信氏



 画像:安藤信尹書状(軸装)
安藤信尹(1717〜1771)書状(軸装)




画像:忠長岳父織田信長の墓(崇福寺)

忠長岳父織田信良の墓(崇福寺)

 画像:袈裟と燗瓶画像

袈裟/長柄銚子/提子

 ○ 忠長の書状は、崇源院の三回忌(寛永五年)もしくは七回忌(寛永九年)のいづれかで、「内々」という言葉か ら、死の前年、甲府蟄居中の七回忌のものと考えられる。蟄居の身に祐筆はおるまいから、これは自筆の書状であろう。もうひとつの天保期の大信寺文書は、忠長の二百年遠忌までの経過がわかる貴重な史料である。
高野山奥之院に、忠長建立の崇源院五輪塔がある。中院通村の日記(寛永三年十一月二十八日条)及び孝亮宿禰記の宣命(寛永三年十一月二十八日付)によれば、江の諱である達子は「ミチコ」と読む。春日局が著したとされる『東照大権現祝詞』(日光輪王寺所蔵)によれば、崇源院の読み仮名は「そうげんいん」である。
京都市左京区黒谷の金戒光明寺(浄土宗)に、崇源院と忠長の供養塔がある。前者は寛永五年、後者は寛永十一年、春日局建立の宝筺印塔である。
京都市東山区の養源院(浄土真宗)に崇源院の肖像画がある。浅井長政の院号を寺名とする養源院は、文禄三年(1594)、淀殿(茶々)が長政の二十一回忌の供養として建立したもので、元和五年(1619)、火災により焼失したが、元和七年(1621)、崇源院が再興した。養源院には、伏見城遺構の血塗り天井や俵屋宗達の杉戸絵(重文)がある。
東京都文京区本郷の昌清寺(浄土宗)の開基である清(忠長乳母)は、此処で忠長の菩提を弔った。法名昌清尼の昌は松孝院の俗名とされる。また、清は朝倉氏で、忠長の附家老朝倉宣正の一族であろう。寛政重修諸家譜によれば、朝倉宣正は織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏の末裔とされる。
鎌倉扇ガ谷の薬王寺(日蓮宗)に、松孝院建立の忠長の供養塔がある。なぜ鎌倉の法華宗寺院なのか、松孝院との関係は不詳である。
 ○ 旧中仙道沿いの高崎市赤坂の長松寺(曹洞宗)庫裏は、忠長自刃の高崎城書院の遺構とされる。同寺所蔵の幕府絵所絵師狩野探雲(富岡市出身)の涅槃絵には、忠長の供養と何か関係があるのか、不明である。なお、探雲は、晩年、七日市藩前田家の御用絵師になっている。
昭和三十三年(1958)の改葬により、崇源院の霊廟の一部は鎌倉の建長寺に移築された。
徳川実紀によれば、寛永三年(1626)十月十八日の崇源院葬礼に、不思議なことながら、秀忠と家光は出席していない。また、崇源院は火葬であるが、歴代将軍の正室として異例である。
 ○ 徳川実紀によれば、崇源院の年忌法会、すなわち、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌の法会には、ほぼ必ず、貧者への施行と犯罪者の恩赦があり、歴代将軍の正室の年忌法会として異例である。ただ、三回忌には施行と恩赦の記述はない。
 ○ 崇源院の「源」は養源院の「源」を、崇源院の「崇」は崇伝の「崇」を、忠長の「長」は浅井長政の「長」を受けたものとすれば、前二者には崇伝の、後者には江の意向が働いたと考えることもできる。家光と忠長の諱は崇伝の勘申で、家光ははじめ家忠であったが、家忠は清華家の花山院の家祖と同じという武家伝奏(広橋、三條)の進言により、家光と改められた。しかし、慶長十四年(1609)、猪熊事件で後陽成天皇の勅勘を蒙り、蝦夷(松前)配流となったのは花山院忠長である。家忠を忌避するのであれば、忠長も忌避しなければならないだろう。一色氏(足利一門)の出身で幕閣中枢の崇伝が、猪熊事件の関係者を知らぬはずはなく、なぜ忠長などと勘申したのか、わからない。なお、家忠は師実の二男(道長ー頼通ー師実)。花山院(東一条殿)は邸の名で、もとは花山法皇の後院である。『大鏡』は花山法皇の退位を兼家の陰謀とする。また、寛文五年(1665)の朱印状によれば、花山院家の石高は、清華家では菊亭家に次いで、二番目の七百十五石である。
 ○ 徳川実紀によれば、家光と忠長の元服はともに元和六年(1620)九月七日であるが、年齢差と将軍世嗣を考えると、奇妙である。また、着甲始(具足始)は、忠長が元和七年十二月十五日、家光が元和八年九月十五日で、順序の逆転も奇妙である。
 ○  由井正雪の乱(1651)の翌年九月、崇源院二十七回忌法会の直前、別木(戸次)庄左衛門等による謀叛計画が発覚し、一味は処刑された(承応の乱)。
 ○ 江戸図屏風(国立歴史民俗博物館所蔵)の駿河大納言邸の門前に猿曳と猿の絵があるが、それは、右隻の大半(第一・二 ・三扇)を占める猪狩・鹿狩・鷹狩の絵との対比から、駿府毬子における忠長の猿狩(浅間神社の神獣)を寓喩したのであろうか。また、邸外の二頭の馬の内、栗毛は伊達政宗が献上した馬で、葦毛は忠長が数名の側 近とともに甲府から高崎まで連れて行った馬であろうか。とすれば、後者は旗本の桑山貞晴が家光に献上した勝山という駿馬で、献上後、家光から忠長に下賜されたのであろう。猿曳による門付は年頭年始の風俗で ある。猿は馬の守り神という民俗はともかく、忠長邸周辺に描き込まれた二匹の猿と二頭の馬は、何か暗示的である。
 

開催内容  開催日時  平成22年 12 日(土)  
     10:00〜12:30
 会   場
 
高崎市労使会館 2階

  
  高崎市東町80-1 tel 027-323-1598 〈現地集合〉
  
  ※駐車場満車の場合は、最寄りの有料駐車場へお願いします。
 実施内容
 
「駿河大納言忠長卿」講演と拝観

    講師:安藤 綾信 氏
    (旧高崎藩主安藤家当主)
    

   10:00 〜 12:30  講演・拝観等
     
講演後、浄土宗願行山峰厳院大信寺へ(徒歩5分)
 定   員   80人
 参 加 費   無 料
申込方法  文書館に、電話:027-221-2346
 若しくはE-mail:
support@archives.pref.gunma.jp
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  ■ 群馬県立文書館(ぐんまけんりつもんじょかん)ふるさと再発見講座係 

     〒371-0801 前橋市文京町3丁目27-26(二子山古墳の西隣)
     TEL:027-221-2346 FAX:027-221-1628 Mail:support@archives.pref.gunma.jp