お茶の間古文書講座


【本講座の概要とテキスト】

  • 古文書学習の経験がある皆様には、すでに当ホームページで「インターネット古文書講座」(ぐんまの古文書)を開講していますので、こちらをお薦めいたします。
  • 開講は平成25年9月からです。以降、毎月1回(月初め)更新して、全24回にわたる連続講座です。
    ※平成26年4月から更新回数を毎月2回(月初・中旬)増やしました。
  • テキストには、当館収蔵の次の3点の資料を使用します。これを3段階(ほっぷ・すてっぷ・じゃんぷ)に分け、毎回それぞれ見開き1枚~2枚のペースで掲載していきます。自らの学習レベルに合わせてテキストを選択し学習してください。
    ほっぷ編 「慶安御触書」(P8214 2282-2) 写真版(見開き1枚分)、釈文、読み下し文、用語解説付き
    すてっぷ編 「五人組帳前書」(P8217 1382) 写真版(見開き2枚分)、釈文、読み下し文付き
    じゃんぷ編 「浅間山大変記」(P08005 80-3) 写真版(見開き1枚分)、釈文付き

【古文書学習の心得】

  • 自宅で一人でパソコンに向かって独学自習する時は、テキストの写真版を直接見ながらか、または写真版をプリントアウトしたものによって、テキストの中の一文字一文字を必ず楷書体で原稿用紙などに書き写しながら先に進んでください。
  • 途中で判読できない文字が出てきた時は、その字数分だけ原稿用紙の升目を空けたまま次に進んでください。そして空欄にした所は、後でもう一度読み直して、できるだけ埋めるように努力しましょう。
  • 原稿用紙への書写が終わった後は、参考資料として掲載した「釈文」や「読み下し文」などを参照し、自ら添削して誤字・脱字などを確認してみてください。
  • 一通り文字の判読(原稿用紙への書写)が終わった段階で、次は自ら大きな声を出してその文章を読んでみてください。なお、読み方がわからない時は、釈文や読み下し文を見ても構いません。
  • 声を出して読んだ後は、その中で使われている用語の意味やその文章の内容を考えてみましょう。
  • 古文書の学習に近道はありません。「習うより慣れろ!」(まず、くずし文字に慣れる。続いて、歴史用語や慣用句に慣れる。そして、文章や言い回しに慣れる。)とよく言われます。毎日コツコツ反復練習をすることが一番大切です。
  • 以上のような手順(目で見る →手で書く →声に出す →耳で聞く)で古文書の解読にチャレンジしてください。
山本大膳蔵版:天保9年「慶安御触書」旧鬼石町三波川:飯塚家文書 P8214 2282-2

いわゆる慶安の御触書は、慶安2年(1649)2月26日に江戸幕府が全国に発布したという32か条から成る農村法令で、歴史の教科書には必ず引用されるほど江戸時代で最も有名なものです。しかし、この触書が発令された当時の原史料が未だどこからも発見されていないことから、研究者の間では本当に実在したものか否か、または後世の偽書なのかなど、その成立をめぐっては明治時代から議論がなされ、今なおホットな論争が続いている史料です。

幕府が農村に指令した法令は寛永末年頃から見られますが、この触書は、従来の法令が幕府の代官に対するものであったのとは異なり、農民に向かって直接しかも懇切に説いて聞かせるといった形をとっている点が特徴です。その内容は、法令遵守に始まり勧農・勤勉・節約など、農民の日常生活の心得から家族関係に至るまで細部にわたって規制しています。また、触書の趣旨はその後、五人組帳前書などに生かされたり、江戸後期にはこの触書を改板して郷村に布達されることもありました。

ここで使用するテキストは、文政13年(1830)に美濃国岩村藩で出版された慶安御触書を基に、幕府代官の山本大膳が天保9年(1838)に改板して、関東の幕府領の村々に配布したものと思われます。この触書が全国的に流布するようになるのは天保年間の頃とされ、それは天保の大飢饉で疲弊した村々の飢饉対策にあったと言われています。

触書の本文は、漢字と変体仮名の混交文で記述されていますが、漢文のように返り点で読むところはほとんどなく、そのまま読み通すことができる点が特徴です。しかも、多くの漢字には読み方(ルビ)が付されていますので、解読を進めることで自然に古文書独特の読み方や言い回しを習得することができます。ただし、一部には破損・虫損などで文字が読みずらい所もありますので、マイペースで繰り返し学習してください。


【参考文献】
  • 山本英二著『慶安御触書成立試論』(日本エディタースクール出版部、1999年)
  • 山本英二著『慶安の触書は出されたか』(山川出版社、2002年)
山本大膳蔵版:天保7年「五人組帳前書」旧鬼石町譲原:山田家文書 P8217 1382

五人組とは、江戸時代における治安・行政の最末端の単位で、地域ごとに五戸前後を組み合わせて年貢納入や治安維持などの連帯責任を負わせました。その始まりは明らかではありませんが、全国規模で幕府領・譜代大名領などで実施されたのは寛永10年(1633)代とされています。

一方、五人組帳は、農民の守るべき事項を箇条書きで記した前書部分と、これを遵守することを誓約した組合員の連名・連印部分から成り、これは村単位で毎年作成され、一冊は領主に提出し、一冊は村役人のもとで保管されました。とくに前書部分は一種の法令集で、その条目は初期の頃(寛永~万治年間)は十数か条で、農民の逃散、離村・転住の禁止、徒党の禁止などが強調されました。しかし、時代が下るにつれて変化し、天明~天保年間には伝統的な条目が整理される一方で、新たな内容の条目が増えて、幕藩領主による農民支配の動向をうかがうことができます。

ここに掲載する五人組帳前書は、天保7年(1836)に幕府代官の山本大膳が出版して関東の幕府領の村々に配布されたものと思われます。本文は従来の70か条のあとに新たに77か条が加えられ、全147か条から成っています。この前書は毎月一回農民が名主の所に寄り合い、名主が口頭で読み聞かせるように指示されました。また本文は寺子屋の教材としても用いられ、その徹底が図られたようです。

この五人組帳前書の本文は木版刷りで、漢字と変体仮名の混交文で記述されています。しかし「慶安御触書」と違って、漢文のように戻って読まなければならないところが随所に見受けられます。ただ、同じような用語や言い回しが繰り返し出てきますので、学習を継続することによって、自然に古文書独特の読み方や言い回しにも慣れて来ると思います。この点を十分に留意しながら読み進めてください。


【参考文献】
  • 穂積陳重編『五人組法規集』(有斐閣、1921年)
  • 野村兼太郎編著『五人組帳の研究』(有斐閣、1943年)
倉品信固写:安政3年「浅間大変記并飢饉豊作記」沼田市下久屋町:倉品家文書 P08005 80-3

天明3年(1783)の浅間山の噴火(天明の浅間焼け)は旧暦4月9日に始まり、その後も断続的に噴火を繰り返したが、7月に入ると激しさを増し、最後の大爆発となった8日には吾妻郡鎌原村をはじめ浅間北麓の4か村を一挙に埋め尽くしました。さらに、その土石流は吾妻川から利根川にまで流れ込み、川筋の村々の人畜・家屋を押し流したほか、多くの田畑も泥流に埋まって荒地と化しました。

この時の噴火のありさまや被害の状況、社会の動向、風聞などを記したものが一般に「浅間大変記」などと呼ばれている災害記録です。ただ、これには様々な種類のものが流布し、なかにはやや誇張した表現が見られたり、被害状況などに差異も見受けられます。この大変記では吾妻川付き79か村が被害をこうむり、流失石高が5378石余、流失家数1082軒、飢人3052人、流死人1674人、流死馬550疋とあります。

一方、江戸幕府もこの大惨状を放置できず、8月下旬には勘定吟味役の根岸九郎左衛門らに命じて復旧に向けた「御救御普請」を実施することになりました。さらに幕府は翌年正月、熊本藩主細川家に対して「御手伝普請」を命じています。

ここに掲載する「浅間山大変記」は、天明3年の噴火と同時代に記録されたものではなく、利根郡下久屋村の名主倉品信固が幕末の安政3年(1856)3月に記したものと思われます。ただ信固自ら見聞したことを記したものか、あるいは他の記録から書写したものか、明らかではありません。

本文は、前半部分が噴火の様子、被災範囲、被害状況・絵図、幕府から派遣された役人名などを記し、後半部分が天明3~4年の穀物相場、さらに文政2・8年と天保4・5・7・8年の穀物・銭相場書上から成っています。文字自体はあまりクセもなく、江戸時代の基本的な書体である「御家流」に近い書体で書かれています。是非チャレンジしてみてください。


【参考文献】
  • 『群馬県史 資料編11』近世3・北毛地域1(群馬県、1980年)
  • 萩原進編『浅間山天明噴火史料集成』(群馬県文化事業振興会、1989年)