平成22年度収蔵資料展1「街道をいきかう人々と宿場のくらし」


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米野宿目的別通過者 画像

1 沼田街道

江戸時代、前橋から利根・沼田方面へ向かう道筋である沼田街道には、赤城西麓の利根川左岸を通る東通りと、利根川右岸を通る西通りがありました。このうち本街道として公的に位置づけられ、一般に沼田街道または沼田往還と呼ばれていたのが東通りでした。
 沼田街道は脇往還にすぎず、中山道やそれに準じる日光例幣使道などのような宿駅制度が整備されていたわけでありません。しかし沼田藩主の正式な参勤交代路として、利根・沼田地域から前橋方面への商品荷物の搬出路として重要な道筋でした。なかでも荷物などの継ぎ場であった米野・溝呂木・長井小川田(南雲)・森下の四か村は、ある程度の町並みが整い、宿場としてのにぎわいを見せていました。

タイトル 年代 文書番号
1 元禄国絵図に見える諸街道 元禄15年 P8710-1
2 前橋風土記(写本) 年代不明 P9301-295-19
3 沼田街道西通りとの争い 弘化3年5月 P8111-551
4 利根郡戸鹿野新町地引絵図より  明治初年 群馬県行政文書
地図352

2 森下宿のにぎわい

(1)森下宿

 江戸時代の勢多郡森下村は、前橋藩領の川通りに属していました。「寛文郷帳」によれば村高七七六石、田方一三七石余、畑方六三八石余の赤城北西麓の山がちな村でした。

 その一角に森下宿がありました。片品川を沼須で渡れば沼田城下へ約一里という交通の要衝に位置することから、戦国時代には北条氏と真田氏が争奪を繰り返し、天和元年(1681)沼田藩主真田氏改易の際には沼田城受け取りの高崎藩主安藤対馬守らも陣取っています。最盛期には上宿・中宿・下宿からなり、一時は「森下町」「森下宿」の名称も史料に見え、にぎわっていた様子がうかがえます。元禄7年(1694)には市場取り立てを前橋藩に願い出て認められています。

タイトル 年代 文書番号
5 市場を立てる 元禄7年2月11日 P8111-674
6 市場の掟 元禄7年6月朔日 P8111-530
7 道筋の整備 元禄7年5月18日 P8111-901-2
8 勢多郡森下村地引絵図  明治初年 群馬県行政文書
地図1036

(2)宿場と問屋

 江戸時代の宿場は、規定の人馬を常備し、役人など公用の旅客・荷物・通信の搬送(継ぎ立て)などを担っていました。こうした役割を維持するため宿場には問屋・年寄などの宿役人が置かれていました。
 森下の場合は、上・中・下の各宿に問屋が置かれていたようです。享保7年(1722)馬継場をめぐる裁許により伝馬八匹・人足十人を常備するよう規定され、問屋が差配を行っていました。後で見るように沼田藩や前橋藩からの御用を盛んに務めています。また、森下の問屋役は、「郷例」にもとづき入札(投票)によって決められており、関係史料が「真下一久家文書」に多数残されています。

問屋と先触の役割

 前橋にいた沼田藩士須田彦作・高橋理作・金井周作一同が、沼田に戻る際、米野宿から森下宿の問屋に対し、賃人馬の継立を用意するよう依頼した先触です。先触とは、通行者がこれから通ろうとする街道の宿駅に対し出した事前の通知で、目的地までの宿の間をリレーのように伝えられていきました。この場合、米野→溝呂木→長井小川田(南雲)→森下→沼田の順に、出立日と人足一二人・本馬一匹の用意が各宿の問屋間で伝えられていきました。これを受けて森下など各宿の問屋は、通行者が求める人馬などの手配を事前に進め提供しました。

*継立(つぎたて)
 江戸時代の宿駅は、公用の通行者に対して人馬を提供し、次の宿駅までリレーのように人や荷物などを送り届ける任務を持っていました。これを継立または伝馬といい、負担を人馬役(伝馬)といいました。公用の利用者が持参する御朱印・御証文と、あらかじめ渡されていた印鑑とを照合してから、無賃の人馬を提供するのが原則でした。

タイトル 年代 文書番号
9 問屋・長百姓・入札覚帳 嘉永5年2月 P8111-395
10 入札用紙 安政4年 P8111-939-4
11 問屋役の退役願 弘化3年12月 P8111-715
12 問屋御用留  嘉永6年 P8111-396
13 沼田家中須田彦作の継人馬印鑑 年未詳 P8111-902-1

(3)本陣問屋角田家

P8111-47 画像  下宿には本陣付の問屋が置かれ、角田家が世襲していました。角田家は真田家に仕えていましたが、天和元年(1681)の真田家改易後に森下に土着したとされています。「五人組改帳」などに「牢人」「帯刀浪人」として他の百姓と区別され、「角田」姓で記されるように、村内で特別な位置づけをされていました。享保16年(1731)の「五人組改帳」には、右の写真のように手代一人・下男九人・下女五人を雇っていたことが記載されています。(P8111-47)

タイトル 年代 文書番号
14 駄賃馬荷物継送り負担をめぐる出入り 延享5年正月 P8111-668

3 武家の通行

(1)巡見使が来る!

 江戸幕府は、幕府領や大名領の政情や民情を視察するため、巡見使という役人を派遣しました。最初の巡見使は三代将軍家光の時代にさかのぼりますが、天和元年(1681)以降は将軍の代替わりごとに全国を八地域に分け使番・小姓組・書院番の三人一組で私領を視察させる諸国巡見使の制度が整いました。また、幕府領を視察したのが御料所巡見使で、「天保巡見日記」を残した天保の巡見使が有名です。
 巡見使の通行は、諸藩にとっては一大事件で、数ヶ月前から村々に触を出し、道普請や接待などの対応を指示しました。当館収蔵文書やマイクロ複製本にも多数の関連文書が残されています。興味ある方は、HPの目録検索で試しに「巡見」を検索してみて下さい。

森下村を通過した巡見使 画像 天明8年の諸国巡見使の通行日程 画像
年代 文書番号
15 御巡見様御触写 天明8年3月 P8111-259
16 巡見使通行時の沼須渡船対応 (天明8年)6月朔日 P8111-1347
17 巡見使に差し出された明細帳 天明8年6月 P8111-243
18 巡見使との問答 (天明8年)6月7日 P8111-650
19 巡見使の通ったあとに 宝暦10年11月 P8111-936-19
20 巡見使への訴え(赤城山論) 宝永7年5月 P08005-221

(2)沼田藩主が通る!

 沼田藩主の正規の参勤交代路は、沼田街道東通りでした。参勤交代の制度が確立したのは、三代将軍家光の時代で、遠国の大名は毎年四月に参府し、関東の譜代大名は半年交替で参勤交代を命ぜられていました。沼田藩主土岐氏の場合は国元の帰城が九月で、十二月には参府することになっていました。参勤の行列の人数は大名の家格と石高によって異なり、土岐氏は三~五万石の家格の一五〇~二〇〇人くらいであったと見られています。
 天保期以前の通行は、多くが正規の東通りだったようです。しかしその後はほとんど西通りを通行するようになりました。西通りを使う場合、北杢宿から三国街道に入り高崎宿から中山道を行くコースで、三泊四日の道のりでした(『沼田市史』通史編近世)。

タイトル 年代 文書番号
21 阿部正弘ほか老中奉書(殿様の初めてのお国入り (嘉永元年)9月22日 P9004-109
22 土岐山城守通行時の人馬触 年未詳9月11日 P08716-71
23 殿様から脇本陣ほかへの謝礼 文化元年9月29日 P8111-783

4 庶民の往来

(1)旅稼ぎ職人

 江戸時代の上野国には、越後・信濃・下野・陸奥などからかなりの数の職人が流入していました。米野宿の「見張番所旅人改帳」には、越後からは大工・木挽・屋根葺きなどの諸職人が旅稼ぎに来ていたことが記されています。
 前橋藩では、他国職人が村にとどまる場合、名主・組頭を通じ役所に届け出て鑑札(焼印)をうけさせていました。「真下一久家文書」「真下文男家文書」の中にも十七点の焼印拝借証文(願)が残されています。これらより高遠石工・越後大工・会津屋根屋など他国諸職人が森下村にも来ていたことがわかります。

宮ノ木八幡宮御神燈 画像
宮ノ木八幡宮御神燈 解説 画像
タイトル 年代 文書番号
24 越後大工の焼印拝借証文 寛政9年2月 P8111-764
25 会津屋根屋の焼印拝借証文 寛政9年2月 P8111-670
26 高遠石工の鑑札拝借願(下書) 文化12年 P8111-634
27 沼田栄町半兵衛娘の寺請証文 元文5年4月11日 P8111-930-2
28 前橋領川通森下宿五人組改帳 享保16年9月7日 P8111-47

(2)沼田煙草と商人

江戸時代、利根・吾妻地域で栽培された煙草は「沼田煙草」と呼ばれ、高崎近辺で産する「館煙草」とともに江戸でもよく知られた産物でした。すでに十七世紀から沼田藩真田氏が年貢の対象とするほど生産されていました。十八世紀半ば以降は、生産が一段とすすみ、中小の仲買人を含む在方の煙草商人が多数あらわれ、文久元年(1861)には沼田近辺から吾妻郡原町にかけて188人が活動していました。これら商人が集荷した煙草は、上野国内の前橋・伊勢崎・高崎・大間々などで取り引きされたほか、江戸にも出荷されていました。文化10年(1813)江戸の煙草問屋で株仲間として公認された41人のうち、九人が「沼田煙草」の問屋と称されていたといいます。

タイトル 年代 文書番号
29 沼田煙草商人買い付け方につき森下村あて申し入れ状 文政2年10月 P8111-845
30 勢多郡沼田領生越村差出帳 元禄14年7月 P8204-27
31 沼田葉煙草の看板  江戸後期 商家高名録・
商業高名録

5 森下村と生越村

タイトル 年代 文書番号
32 山論出入裁許絵図(上久屋村・平出村と生越村との秣場出入り) 宝暦11年12月 P8204-344

(1)秣場(まぐさば)

江戸時代、田畑の肥料や牛馬の飼料としての草を刈り取った原野のことを言います。ほとんどが入会地で、一村から数ヶ村の農民が共同で利用しました。利用する場合、採取物、入会時期、採集用具、入会人数、採取方法、採取数量などで様々な制限がありました。上野国でも赤城山や榛名山などの秣場の利用をめぐって、周辺の村々の間で紛争の起こることも少なくありませんでした。

タイトル 年代 文書番号
33 >貝野瀬村と生越村の野論裁許 延宝3年4月6日 P8204-205
34 真下家に残る山論出入裁許絵図の記録 宝暦12年正月4日 P8111-795
35 生越村からの鎌入通知 年末詳辰9月4日 P8111-937-9

(2)享保の荷継をめぐる争い

享保6年(1721)から翌年にかけて、森下宿と生越村・貝野瀬村・川額村との間で荷継をめぐって争いが起きました。森下の南に位置する川額村の者が、生越など赤城山北麓の村々からの荷物を「付通し」で運送しようとしたところ、森下村の番人が実力で差し押さえた事件が発端でした。この中で大きな争点となったのが、馬継場は川額村か、あるいは森下村なのか、ということでした。ではどのような結論となったのでしょうか。

 *付(附)通し・・・継立をせず出発地から目的地まで直接荷物を運ぶこと

タイトル 年代 文書番号
36 荷継をめぐる道中出入覚帳 享保6年11月 P8204-40
37 取替証文(荷物附送りにつき) 享保7年4月25日 P8204-154
38 真下文男家文書より 天保7年11月 P08716-141