平成27年度ロビー展示Ⅰ「記録が語る昭和の戦争と県民のくらし」


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開催にあたり

アジアそして太平洋での戦争終結から、今年で70年を迎えます。当館では、収蔵資料のなかから、アジア・太平洋戦争と戦時下の県民生活の様子が伝わる資料を取り上げ、ロビー展示Ⅰ「記録が語る昭和の戦争と県民のくらし」を開催します。
この70年間で我が国は様々な面で大きく変わりました。とりわけ戦争とその時代を生きた人々の平和を希求する思いが戦後日本の歩みを方向付け、現在に至ったと言えるでしょう。表現や言論の自由など、今では当たり前と思われる人々の権利も戦時下では大きく制限されました。今では広く認められる価値観の多様性も、その当時は、社会通念・教育等により制限・集約がなされ、それが戦争遂行の一因となりました。当時の記録からはそれらの様子を伺い知ることができます。
今回の展示を通して、史料に記録された戦争とその当時の人々のくらしの様子に触れ、戦争とは何か、平和とは何か、を改めて考えていただければと思います。

表題 文書群・簿冊名 請求番号/文書番号 和暦年 西暦年
 1 迫り来る戦争への備え
 昭和9年(1934)に群馬県で大規模な軍事演習である「陸軍特別大演習」が開催され、大元帥として昭和天皇も行幸しました。昭和11年(1936)には、現在の富岡市一ノ宮に「東国敬神道場」が設立され、「(有為活発なる皇国の人材を錬成するため)男女青年団員をはじめ、学生その他広く県民一般の精神修養の道場」として運営を開始しました。
 明治維新以後、富国強兵の国策は、日清・日露戦争や第一次世界大戦の勝利をもたらし、それにより列強諸国の仲間入りを果たすこととなりましたが、世界恐慌の影響や国内の不況、経済の閉塞感を、武力による大陸の進出、権益確保により解消しようとする動きにつながって行きました。国際協調や世界的な軍縮の動きに対して、5.15事件や2.26事件に象徴される武力行動、軍事演習、皇民教育に名を借りた軍国主義教育は、結果的に満州事変、そして15年にわたるアジア・太平洋地域での戦争につながっていくことになります。
1  陸軍特別大演習 東軍山砲陣地 『陸軍特別大演習並地方行幸 写真帖』 B 970182 昭和9 1934
2  陸軍特別大演習 西軍軽機関銃隊ノ奮戦 『陸軍特別大演習並地方行幸 写真帖』 B 970182 昭和9 1934
3  陸軍特別大演習 全将校集合 『陸軍特別大演習並地方行幸 写真帖』 B 970182 昭和9 1934
4  観兵式場及賜餞場参入要領図 群馬県行政文書『大演習 参謀本部関係』 A0181A0S 1179 昭和9 1934
5  東国敬神道場概要 『東国敬神道場概要』 A1005B00 34 昭和11 1936
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6  東国敬神道場 芳名録 『東国敬神道場芳名録(落成式)』 A1005B00 31 昭和11 1936
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7  鈴木貫太郎書状
 (二・二六事件遭難見舞に対する礼状)
斎藤忠一家文書 P09506 130 昭和11 1936

鈴木貫太郎
第42代内閣総理大臣(任昭和20年4月7日~8月17日)。

 慶応3年12月(1868)生まれ、当時父由哲は関宿(現千葉県野田市)藩久世家の飛び地(現大阪府堺市)の代官で、後に群馬県職員となり、前橋に移 住した。貫太郎は桃井小学校(現前橋市)を卒業後、利根川学校(のち群馬県中学校)に入学。その後、海軍兵学校に入学し、日清・日露戦争では水雷艇や駆逐艦を指揮して活躍し、大正3(1914)年に海軍次官、同12(1923)年に海軍大将、翌年に連合艦隊司令長官、その翌年海軍軍令部長となる。 昭和4(1929)年侍従長(兼枢密顧問官)として宮中に入り、昭和天皇の側近として仕える。在職中の昭和11(1936)年の二・二六事件で、青年将校等により襲われ瀕死の重傷を負う。昭和20年4月5日に総辞職した小磯國昭内閣の後継として、枢密院議長であった貫太郎が四月七日に内閣を組閣する。昭和天皇の強い懇願があったと言われている。この時、貫太郎は満77歳。終戦直後に内閣総辞職。昭和21年、郷里である関宿町に帰り、昭和23年4月に死去。
齋藤熊雄
 父は前橋藩松平家の家臣であった齋藤信一(看園)。熊雄は末子で 慶応3年生まれ、貫太郎とは利根川学校の同級生。兄には自由民権家として著名な齋藤壬生雄・山崎重五郎や共愛女学校長の青柳新米がいる。熊雄は群馬県師範学校に進み、小学校教諭になるが辞職、京都の同志社に入学し伝道に従事する。明治29年に宝泉小学校(現太田市)初代校長として着任、以後県内各地の小学校長や訓導等を歴任。

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8  防空に関する県民心得 倉品右近家文書 P08005 968 昭和11 1936
 2 日中戦争の開始 ~戦場へ行く人、送る人~

 昭和12年(1937)の華北駐屯日本軍と中国国民党軍が衝突した「盧溝橋事件」勃発を期に、日中全面戦争へと突入していきます。そして、国民皆兵制により、多くの人々が応召して戦場へと赴くことになります。昭和13年(1938)には総力戦遂行のため、国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるよう「国家総動員法」も制定され、食糧や生活用品など様々な統制を受けるようになりました。同年には「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集も始まり、建国された満州国やソ連国境の内蒙古に県内からも多くの開拓者が入植しました。
 国民の間でも、政府による統制された報道情報や思想教育により、戦争を支持し、協力する論調が構築されていきました。「お国のため」「欲しがりません。勝つまでは」などや、反戦、自由主義的な態度、行動に対する「非国民」という言葉は、平和を願う心とは裏腹に戦争継続の容認に結びついていたとも考えられます。学校で使われる教科書の記述や、県庁に掲げられた垂れ幕からも、それらの様子が伺えます。

9 学校教練必携 田村あい子家文書 P08506 1128 昭和12 1937
10 国家総動員法 『官報』(昭和13年4月1日) A0182A00  
    5385 3-1
昭和13 1938
11 膝射ニ於ケル筒ノ保持其一、其二 田村あい子家文書 P08506 1137 昭和13 1938
12 日中戦争(支那事変) についての教科書記述 田村あい子家文書 P08506 442 昭和14 1939
13 「満蒙開拓青少年義勇軍」候補生の訓練 群馬県行政文書『児童拓務訓練関係』 A0181A0S 788 昭和17 1942
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14 群馬県庁の垂れ幕 昭和10代 1930代
 3 太平洋戦争の開始 ~戦場下の県民のくらし~
 昭和16年(1941)に始まった太平洋戦争も戦況の悪化に伴って物資の不足が顕著となり、金属については県内でも、機織機などの工場用機械をはじめ、家庭からも広く回収を行いました。また、「戦時報国債券」や「大東亜戦争国庫債券」などの国債も多数発行し、戦費の調達を行い、国民もそれに協力しました。政府は国民生活を統制し、国民の戦争に対する意識を高めるため、様々なスローガンが唱えられました。
 テニヤン島、ペリリュー島など日本統治下の南洋の島々が米軍に制圧されると、それらを拠点に、米国機による本土空襲が始まりました。県下においても夜間の空襲や機銃掃射の目標となることを防ぐために灯火管制等が進められ、全県挙げての防空訓練も実施されました。しかし、物量に勝るアメリカ軍は航空戦力を武器に日本各地の都市に対して無差別な焼夷弾による空襲を行い、その被害は全国の主要都市、そして県内各所にも及びました。
15 米英両国に宣戦の詔書 群馬県行政文書『太平洋戦争宣戦の詔書』 A0382A0G 1669 昭和16 1941
16 「戦い抜こう大東亜戦」 大胡町上大屋区有文書 P8215 955 昭和16 1941
17 「この感激を増産へ!」 大胡町上大屋区有文書 P8215 956 昭和16 1941
18 「勝って兜の緒を締めよ」 大胡町上大屋区有文書 P8215 957 昭和17 1942
19 大東亜戦争国庫債券 鏑木五子家文書 P9707 291 昭和18 1943
20 配給関係資料 群馬県行政文書『雑一括』 A1005B00 57 昭和18 1943
21 本土空襲を想定した防衛訓練 群馬県行政文書『防衛訓練関係』 A0384A0G 1788 昭和19 1944
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 4 終戦と戦後 ~占領下のくらしと復興~
 昭和20年8月5日には前橋市、14日には高崎市・伊勢崎市に対して大規模な空襲がありました。そして6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、15年にわたる昭和の戦争は終わりました。しかし終戦後もしばらくの間、食糧・衣料等の物資不足により県民は苦しい生活を余儀なくされました。 その後、GHQ(連合国軍総司令部)の占領政策として、旧体制の解体、新憲法制定・農地改革・教育制度の刷新など様々な政策が実施されました。群馬県でも、前橋市曲輪町の前橋連隊区司令部跡に軍政本部(後に群馬軍政部、群馬民事部と改称)が設置され、その指導のもと県政も次第に復興に向けて歩み始めました。
22 終戦時の教科用図書の取扱い 伊能光雄家文書 P8003 6463 昭和18 1943
23 鈴木貫太郎書状
(八月十五日暴徒襲撃慰問の礼状)
斎藤忠一家文書 P09506 128 昭和20 1945
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24 前橋の戦災(桃井小学校周辺) 昭和20 1945
25 前橋の戦災(麻屋付近) 昭和20 1945
26 前橋の戦災(連雀町通り周辺) 昭和20 1945
27 進駐軍からの指令 群馬県行政文書『進駐軍指令命令綴』 A0384A0G 1833 昭和21 1945
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28 終戦を迎えて四年 だがこれからが! 群馬県行政文書『宣伝印刷物関係綴』 A0384A0G 1979 昭和24 1945