平成27年度ロビー展示Ⅱ「真田氏と吾妻の諸街道」


パンフレット(PDF:2611kb)

展示ポスター
展示風景1 展示風景2
展示風景3 展示風景4
表 題 和歴年 文書群・簿冊名 請求番号 文書番号
 1.真田氏と吾妻、他
1 吾妻郡の脇往還図Ⅰ 真田道 (近世) 『群馬県史 通史編5』 図118をもとに作成
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 1 画像
2 八幡山番帳(写、部分) 天正16年 富澤久幸家文書 P0905 №631
 真田信幸(さなだのぶゆき)の意を奉じた利根郡(とねぐん)の領主・北能登守(きたのとのかみ)から冨澤豊前守(とみざわぶぜんのかみ)ら4名の番頭に宛てて出された「八幡山」(横尾八幡城)の勤番衆(きんばんしゅう)書上です。八幡山は、中之条町大字横尾字栃瀬にあった城砦(じょうさい)で、中之条から沼田への街道(真田道)と越後への街道が交差する要衝(ようしょう)に築かれた戦国期の山城です。ここを交替で守備する吾妻郡真田方の武士達の氏名が、一番・二番共に32名、計64名記され、各自の上に弓・鑓(やり)・鉄炮の武具が記されています。翌天正17年12月、北条氏邦の軍勢が白井城よりこの城へ攻め寄せましたが、冨沢豊前守以下の将兵が守り、これを退けました(『加沢記』)。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 2-1 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 2-2 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 2-3 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文     
3 横尾八幡城・岩櫃城・大戸城の位置図
  (『群馬県の中世城館跡』などをもとに作成)
平成元年 群馬県教育委員会『群馬県の中世城館跡』1988 GS GS935114
4 〔真田氏黒印状〕
  (寺領安堵、諏訪免京銭8貫400文)
寛永19年 浦野安孫家文書 P0603 №12
 沼田藩真田家家臣の原右近(はらうこん)を奉者として大乗院(だいじょういん)(浦野家)に出された真田信政黒印状です。諏訪神社の免税地としての所領を前々の通り安堵(公認)するという内容です。京銭(きんせん)は、中世末~近世初頭の悪銭です。浦野家は、信濃国小県(ちいさがた)郡出身で、真田氏や羽尾・鎌原氏と同族、中世には大戸城を本拠とした在地領主でした(大戸氏)。近世期には、その一族が吾妻郡林(はやし)村にあった諏訪神社別当大乗院を代々務めました。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 4 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
5 真田伊賀守様領分御検地高帳 寛文3年 関緑家文書 P7801 №13
 沼田藩主5代真田伊賀守(さなだいがのかみ)信利(のぶとし)は、寛文2年(1662)に領内177か村3万石の地に検地を実施し、14万4000石余としました。この文書は、原町を初めとする吾妻郡73か村の検地後の村高(むらだか)が記されています。その後増加した村高をもとに年貢が増徴されました。信利は、延宝8年(1680)に幕府から請け負った江戸両国橋御用材の納期が間に合わず、その他の責も問われ、翌年改易となりました。真田家は、信州松代(まつしろ)10万石のみとなりました。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 5-2 画像 平成27年度 ロビー展示Ⅱ 5-1 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
6 元禄十五年上野国絵図(部分) *彩色有 元禄15年 当館所蔵文書 P8710 №1
 2.信州街道(大戸通り)
 信州街道(大戸(おおど)通り)は、江戸時代に中山道高崎宿から分かれ、烏川(からすがわ)沿いに榛名山西麓(せいろく)を廻って吾妻郡に入り、大戸宿北から西へ向かい上野(こうずけ)・信濃(しなの)国境の鳥居(とりい)峠を越えて北信州に至った道です(7)。沿道には寛永(かんえい)8年(1631)に大戸関所(8 10)、寛文(かんぶん)2年(1662)に狩宿(かりやど)関所(14)・大笹(おおざさ)関所(13)が設置され、中山道の脇往還(わきおうかん)として重要な道となり、沿道の大戸・須賀尾(すがお)・鎌原(かんばら)・大笹村(宿)は、荷物などの馬継ぎ場の役割を果たしました。一方、大笹村から浅間山東麓(とうろく)を通って中山道沓掛(くつかけ)宿に至る沓掛道(大笹街道)が、慶安3年(1650)に北国(ほっこく)街道の脇往還として幕府から公認され、このため元禄(げんろく)~享保(きょうほう)期(17世紀末~18世紀前半)、信州からの煙草(たばこ)・穀類・豆類・酒(9)などの商品荷物の輸送をめぐり、大戸通り6か村と沓掛宿の問屋がたびたび争奪(そうだつ)紛争(ふんそう)を繰り返しました。また、北信州3藩(松代(まつしろ)・須坂(すざか)・飯山(いいやま)の年貢米(ねんぐまい)は、江戸中期以降に大戸通りから中山道高崎宿を経て倉賀野(くらがの)河岸(がし)まで駄送(だそう)され、烏川・利根川の舟運(しゅううん)を利用して江戸へ廻送(かいそう)されました(11)。
7 吾妻郡の脇往還図Ⅱ 信州街道 (近世) 『群馬県史 通史編5』 図118をもとに作成
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 7 画像
8 関所手形可書載覚 *東吾妻町指定重要文化財 元禄10年 大戸区有文書 PF0306 50/437
幕府留守居役(るすいやく)5名から大戸関所人改め中へ出された関所手形(証文)に書き載せるべき事項の覚書です。特に、尼(あま)・髪切(かみきり)・小女など女性についての確認事項が前半にあげられ、乱心(らんしん)・手負(ておい)などは男女とも記すべきとしています。また、欠け落ち、日限延引(にちげんえんいん)の証文、女性人数不足の場合の対処についても記されています。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 8 画像

平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
9 乍恐以書付御訴訟申上候
  (須賀尾村伊兵衛伊香保村へ信州酒請渡売り仰付願)
元禄12年 高橋あつ子家文書 P1105 №159
 須賀尾(すがお)村の伊兵衛から幕府代官宛に提出された伊香保(いかほ)村への信州酒請渡売り仰(おお)せ付(つ)け願いです。温泉地伊香保に造(つくり)酒屋がないため、伊兵衛は信州街道を使い請渡売りを行っており、前年同様の税免除を願い出ました。翌月、伊兵衛と須賀尾村役人は、今後信州酒を信州より直(じか)に伊香保へ輸送し伊香保で商売する旨(むね)の手形を代官宛(あて)に提出しました(同文書 №179)。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 9 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
10 〔幕府留守居役判鑑通知〕
  *東吾妻町指定重要文化財
延享4年 大戸区有文書 PF0306 49/417
 幕府留守居役の瀧川(たきかわ)播磨守(はりまのかみ)を初めとする4名から、幕府代官伊奈半左衛門宛に出された判鑑通知です。同役の内藤越前守(ないとうえちぜんのかみ)の病死により、新たに水野河内守(みずのかわうちのかみ)が就任したので同氏の印形(いんぎょう)を関所手形に加判(かばん)、3月20日より大戸関所でこの印形と引き合わせ通すようにという内容です。その後、伊奈氏から大戸関所役人に届けられたのがこの文書と思われます。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 10 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
11 松代御米駄賃仕切之事 宝暦4年 高橋あつ子家文書 P1105 №158
 信州街道沿い大笹(おおざさ)(宿)問屋の黒岩長左衛門から須賀尾宿の高橋伊兵衛に宛てて出された松代藩(真田氏)の年貢米駄賃仕切書です。「仕切」は、決算・精算のことです。大笹宿から鎌原宿まで、1駄(馬1疋(ぴき))につき3俵付け、85文ずつで運搬されたことがわかります。「倉敷」は、蔵や倉庫に商品を保管する料金のことです。この他、信州北部の飯山(いいやま)藩・須坂(すざか)藩の年貢米もこの街道で江戸へ輸送されました。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 11 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
 3.草津道
 草津道は、江戸時代に武家から庶民に至る多くの入湯客で賑(にぎ)わった草津温泉へ通じる道で、いくつもの道筋がありました(12)。江戸からは、中山道高崎宿から烏川沿いに榛名山(はるなさん)西麓を廻る信州街道を大戸関所経由で須賀尾宿まで進み須賀尾峠・長野原を経由する道(15 16)と、中山道沓掛宿から浅間山東麓を北上し狩宿関所を経由する道(14 17)がありました。信州からは、鳥居峠越えで大笹関所、赤羽根・前口(まえぐち)村経由の道や渋峠(しぶとうげ)越えの道があり、越後・前橋からは中之条より暮坂(くれさか)峠越えで生須・小雨(こさめ)村経由の道がありました。他国からの女性入湯客は、経路にある大笹・狩宿・猿ヶ京(さるがきょう)の関所で往復とも改めを受けました(13)。
12 吾妻郡の脇往還図Ⅲ 草津道 (近世) 『群馬県史 通史編5』 図118をもとに作成

平成27年度 ロビー展示Ⅱ 12 画像
13
〔草津村役人関所手形判鑑届〕 明和7年 中澤晁三氏収集文書 P0804 №49
 幕府代官の蔭山外記(かげやまげき)・野田弥市(どだやいち)右衛門(えもん)から大笹関所番人宛に出された草津村名主・年寄(としより)の判鑑(はんかがみ)(印影(いんえい)見本)です。当時、信濃・越後国から草津温泉へ入湯する女性は、居住する町村の町奉行、または名主の手形をもって関所を通り入湯し、帰国の際は草津村名主・年寄の手形にて関所を通ったことがわかります。同様の文書が、猿ヶ京(さるがきょう)・大戸・狩宿(かりやど)の各関所番人にも届けられ、印形改めが行われました。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 13 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
14 乍恐以書付御願奉申上候
  (狩宿関所道辻札杭立て願書)
寛政元年 黒巌有治家文書 P0709 №35
 狩宿村役人らから幕府代官篠山十兵衛(ささやまじゅうべえ)役所宛に出された願書です。狩宿関所は、中山道沓掛(くつかけ)宿から北上する入湯のための草津道と、信州から大笹・高崎を結び物資輸送が活発な信州街道が交わる交通の要衝(ようしょう)に設置されました。村役人らは、「御武家様」や「寺院方」が通行する草津道そばの関所下の横道を乗馬で通行することは目上の方々に失礼な行為であり狩宿村にとっても迷惑なので、大笹への道辻(みちつじ)や草津・須賀尾への道辻に「馬の口を引いて通れ、小荷駄馬(こにだうま)に乗るな」という札杭(ふだくい)を立てたい、と願い出ました。口付は、馬の口取りをして引く人のことです。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 14 画像

平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
15 〔江戸送り囚人大戸関所通行手形〕
  *東吾妻町指定重要文化財
享和3年 大戸区有文書 PF0306 49/431
 幕府代官稲垣藤四郎手代(いながきとうしろうてだい)の金子九十郎から大戸関所当番中宛に出された関所通行手形(証文)です。享和(きょうわ)3年、草津村で上野国宮崎村(現富岡市)の無宿(むしゅく)友吉が、同村の吉右衛門に傷を負わせた罪で江戸奉行所(ぶぎょうしょ)送りとなりました。「目籠(めかご)」は、竹で編まれた目が粗い籠で、それをかぶせ囚人を護送(ごそう)しました。草津から長野原へ下り、須賀尾峠を越える草津道を通り、須賀尾宿から信州街道で江戸へ運ばれたと考えられます。 平成27年度 ロビー展示Ⅱ 15 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
16 差上申一札之事(草津温泉旅人引付禁止に付請書) 文化11年 羽根尾区有文書 P0106 №235
 草津村入口村々役人らから幕府(岩鼻(いわはな))代官吉川永左衛門(よしかわえいざえもん)手付(てつけ)の佐々木倭(ささきわ)右衛門宛に提出された旅人引付禁止に関する請書(うけしょ)です。文化年間、草津温泉への湯治(とうじ)は活発で、入口や麓(ふもと)の村々には湯宿から酒代等を貰(もら)い馳走(ちそう)等の接待を受け、その湯宿へ湯治客を引き付ける者が少なからずいました。この文書は、以後そのような者が出ないよう草津村役人の奥書(おくがき)を添(そ)えた請書です。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 16 画像

平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
17 〔支配替えに付狩宿関所付村々惣百姓連判証文差出方廻状〕 (元治元)子年 伊能光雄家文書 P8003 №1796
 狩宿関所役人から関所付村々9か村に宛てた御用廻状(かいじょう)です。内容は、幕府代官の交替があったので、各町村の名主役人・惣(そう)百姓連判(れんばん)証文の作成と提出、この廻状の順達(じゅんたつ)を命じています。宛先の9か村は同関所付村々で、狩宿・与喜屋(よきや)村は関所下番役(したばんやく)(下働き人足)、古森(ふるもり)・袋倉(ふくろぐら)・芦生田(あしゆうだ)・小宿(こやど)村は関所付遠見役(とうみやく)(関所破りの監視等)を務めていました。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 17 画像

平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
 4.中之条・原町などの諸道

 三国裏街道(みくにうらかいどう)は、吾妻川が増水して杢ヶ橋(もくがはし)が不通の場合、榛名山北麓(ほくろく)の吾妻川右岸をさかのぼる日影道(ひかげみち)から厚田(あつだ)・郷原(ごうばら)村間の長須(ながす)(万年)橋を渡って原町・山田川橋(21)・中之条(18)を経由し、そこから大道(だいどう)峠越えで入須川(いりすがわ)を通り本道の須川宿へ出る道のことです(19)。三国街道脇往還や北国脇往還などとも呼ばれ、幕府佐渡奉行などが通行しました(20)。後に、長須橋より下流に田辺橋も架けられましたが、増水によりたびたび流失しました(22)。
18 慶安二年丑伊勢町より分郷中之条麁絵図   *彩色有、41.0㎝×53.0㎝ 慶安2年 富澤久幸家文書 P0905 №2724
 近世初期の西中之条村・中之条・伊勢町とその周辺の様子が大まかに描かれています。中之条の開町分村については不明ですが、明治初期の『上野国(こうずけのくに)郡村誌』によると、「中條町」の項では上記3地域は元(もと)1町で寛永(かんえい)2年(1625)に字(あざ)王子原に移ったのが中之条の始まりと記し、伊勢町の項では寛永9年(1632)に分かれて長岡に上がったものを中之条町と言う、と記しています。また、吾妻川に注ぐ山田川・胡桃沢(くるみざわ)川・「通之川」(現桃瀬川)や中之条用水なども描かれています。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 18 画像
19 〔中之条町・原町周辺村々路程図〕
  *彩淡色有、縦27.4cm×横38.6cm
(近世後期) 伊能光雄家文書 P8003 №1454-16
 吾妻川左岸の中之条町・原町周辺村々と同右岸榛名山北麓(はるなさんほくろく)村々の村名・里程(りてい)・橋・渡船場(とせんば)などが描かれています。中之条町・原町の所に「寄場(よせば)」と記されていることから、幕末期の中之条町・原町寄場組合村絵図とも考えられます。橙(だいだい)の着色がある村は「北国脇往還(ほっこくわきおうかん)」=三国裏街道(みくにうらかいどう)の道筋で、出水時に厚田(あつだ)村の「御普請所長須橋(ごふしんじょながすはし)」まで迂回し、中之条町から大道(だいどう)峠を越えて入須(いりす)川村へ抜けた道を示しています。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 19 画像
20 佐渡御奉行山本伊予守様御先触写
  (吾妻川渡船不通に付万年橋廻り継立て御先触)
寛政11年 伊能光雄家文書 P8003 №367
 佐渡奉行街道(さどぶぎょうかいどう)は、渋川宿で三国街道と合流しました。通常、杢(もく)ヶ関(せき)の先で吾妻川を渡りましたが、出水時は上流の郷原(ごうばら)・厚田村間の万年(まんねん)橋(長須橋)まで迂回し、中之条から大道(だいどう)峠を越え、須川宿で本道と合流しました(三国裏街道)。この文書からは、寛政11年4月の出水時に佐渡奉行山本伊予守(いよのかみ)一行が急遽(きゅうきょ)三国裏街道を通ることになり、岩井・植栗(うえぐり)・新巻(あらまき)村など沿道の村役人たちが、その対応に追われている様子がうかがえます。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
21 山田川橋御請書 控 享和3年 富澤久幸家文書 P0905 №7
 山田川橋は、吾妻川支流山田川にかかる刎橋(はねばし)で、三国裏街道の中之条村と原町を結ぶ重要な橋でした。橋の掛け替えについては、地内35か村組合が普請(ふしん)することになっていました。この文書は、前年(享和2年)の出水で橋が流失(りゅうしつ)し、領主(りょうしゅ)の掛け替え命令が下り、関係村々の役人が出人足(でにんそく)等滞(とどこお)りなく務めることを承知し提出した請書の控(ひかえ)です。刎橋は、不必要な時は吊り上げて置き、必要な時にはね下(お)ろす橋のことです。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 21-3 画像 平成27年度 ロビー展示Ⅱ 21-2 画像 平成27年度 ロビー展示Ⅱ 21-1 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
22 乍恐以書付奉願上候(吾妻川通字田辺橋破損修復に付御材木橋場着御月延願書控) 文政2年 富澤久幸家文書 P0905 №442
 文政2年(1819)の田辺(たなべ)橋破損修復に関する文書です。田辺橋は、原町(左岸)と川戸村(右岸)を結ぶ橋で、元禄(げんろく)15年(1702)の「元禄上野国絵図」には描(えが)かれていませんが、文政(ぶんせい)期には存在したことがわかります(史料⑲絵図にも有)。閏(うるう)4月当時、同橋関係村々は、麦刈り取り・田植え・養蚕(ようさん)の繁忙期(はんぼうき)で、材木を橋場へ運ぶ余裕がなく、7月中までの作業の延期を願い出ました。この間の出水(しゅっすい)の場合は、仮橋を架けるとしています。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 22 画像
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
 5.天明三年浅間山噴火被害絵図、他
23 〔信濃・上野国境論裁許絵図〕(信濃国小諸領菱野村八幡村と上野国沼田領鎌原村両国境論之事)*彩色、縦78.0㎝×横92.0㎝、同文書裏面裁許文・釈文も展示 寛文4年 羽根尾区有文書 P0106 №360

 寛文(かんぶん)4年(1664)に信州小諸領菱野(こもろりょうひしの)村・八幡(はちまん)村と上州沼田(ぬまた)領鎌原村との間で発生した、国境(秣場原野(まぐさばげんや))をめぐる論争の際の幕府裁許(さいきょ)絵図です。裏面の裁許文によると、幕府は検使(けんし)を派遣し両者の言い分を糺(ただ)して裁定(さいてい)しましたが、入会(いりあい)境界線は従来通りとし、絵図の東西に引かれた2本線の間の地域(上州側)では信州村々に下草(したくさ)・柴木採取権(しばきさいしゅけん)を認めました。信州側に有利な裁許となったことがわかります。
平成27年度 ロビー展示Ⅱ 23-2 画像 平成27年度 ロビー展示Ⅱ 23-1 画像

平成27年度 ロビー展示Ⅱ 釈文   
24 〔天明三年浅間山噴火被害絵図〕
 *彩色、縦83.0㎝×横116.7㎝
(天明3年カ) 狩野一郎家文書 P1303 №1
 天明3年(1783)浅間山大噴火による泥流(でいりゅう)・降灰(こうはい)被害の状況を描いた絵図です。上野国を中心に武蔵国(むさしのくに)北部・秩父(ちちぶ)の武甲山(ぶこうさん)まで描かれていますが、噴火した浅間山や泥流被害の吾妻川沿岸地域、降灰被害の中山道・下仁田(しもにた)道沿いの地域が強調されています。凡例(はんれい)記載はありませんが、泥流被害地域はこげ茶色、降灰被害地域は薄茶色、街道は朱色、近くの山々は薄緑色、遠くの山々は薄藍色、被害地域周辺部村々は薄黄土色に塗り分けられています。また、子持(こもち)神社・水沢観音(みずさわかんのん)・妙義(みょうぎ)神社・貫前(ぬきさき)神社・赤城(あかぎ)神社・美和(みわ)神社(桐生(きりゅう))などの社殿、大笹・狩宿・大戸・猿ヶ京・大渡・實政(さぬまさ)・福嶋などの関所も描かれています。吾妻川南・同川北村々の被害書上(かきあげ)、上野国式内(しきない)十二社、中山道五宿の被害状況等の記載もあります。 
25 〔浅間焼け吾妻川沿い岩井村泥押し被害図〕
 *彩色、縦77.7㎝×横98.0㎝
天明3年カ 伊能光雄家文書 P8003 №1454-2
 天明3年7月の浅間山大噴火は、上野国を初め広範囲の人々に甚大(じんだい)な被害を及ぼしました。この絵図は、被災後に吾妻郡岩井村役人が、領主保科氏の命(めい)により認(したた)め差し上げたものです。上(南)側に大日山(だいにちやま)等の山々、中央に村人生活面にある白山(はくさん)宮・長福寺(ちょうふくじ)等の寺社、下(北)側に泥石砂で覆(おお)われた田畑や吾妻川が描かれています。別紙黒紙で被害地域を示す異色(いしょく)絵図です。 平成27年度 ロビー展示Ⅱ 25 画像