レファレンス事例紹介コーナー


 ~ 「文書館だより」バックナンバーより ~


問1 江戸時代の古文書に書かれている書体は、字がくずされていて読みづらいのですが、何とよばれる書法なのですか?

 はい、これは「御家流(おいえりゅう)」とよばれる書法です。この書法を普及させたのは、鎌倉末から南北朝期にかけての書家、尊円法親王(1298~1356)で、当初は、青蓮院流(しょうれんいんりゅう)といわれました。江戸時代のはじめこの流儀の名うての書き手であった松花堂昭乗は、幕府の祐筆(筆吏)にこの書法を伝えたため、幕府の公文書は御家流が用いられ、諸藩もこれに追従しました。そして、寺子屋でも御家流を教えたので、大いに普及しました。現代の私どもは楷書も慣れ、字がくずされている御家流の文字を読みづらいと感じますが、御家流の文字は、他の書流に比べるとくずし方は平易で、書風もおだやかということです。


問2 離縁状の中に出てくる「我等勝手につき離縁…」の「我等」は、当事者が個人なので「我」が正しいのではないか。

 「我等勝手につき…」という文言は、離縁状のきまり文句で、当時こう使われていたことは間違いないことです。なるほど離縁の当事者は個人に違いないのですが、当時「我等」という言葉は、今考えられているように「我々」と同様複数の人を表すとは限らないのです。単数・複数両様の場合に使われています。一方、離縁の当事者は、これも今考えられているように完全に個人レベルであったかどうかということも考えてみなければなりません。「家」の観念が基礎にあった当時は、離縁も家が主体であったと考える余地もあると思います。この点は結論が出ているわけではありません。要は、古文書を読む場合に現在の常識だけで考えると理解できなことがあるということです。


問3 欠落「かけおち」という語は、今と昔で意味の違いがあるのでしょうか。

 天明3年3月、文七弟文助・親類・五人組・村役人は、遠藤兵右衛門役所に、欠落百姓跡株に付願書を提出しました。

 乍恐以書付ヲ奉願上候

当村百姓文七儀、去六月中欠落仕候ニ付、其段御訴申上候所、御吟味之上追々日限尋被仰付置、所々相尋候得共行衛相知レ不申ニ付(中略)不埒之旨ニ而急度御叱リ之上、文七行衛永尋ニ被仰付候然所文七跡株之儀……伝々(後略)

 この「欠落(かけおち)」という語のひびきからは狭い意味に考えがちですが、もっと広い意味に使われていました。中世では武士の敗走・逃亡・脱走の意味をもち、江戸時代になると、一人あるいは数人、数家族程度の人が、その居住地から逃げ去り行方をくらます意味をもちました。武士については出発、庶民については欠落の語を適用されるのが通例です。この欠落の原因は生活の貧困、喧嘩口論で人を傷つける等種々ですが、主因は年貢未進によって受ける刑罰を恐れての逃亡(即ち欠落)でした。近世初期の法令には、欠落についての規定がきわめて多くみられます。幕藩体制が整備され、村落の連帯責任が規定されるようになると、欠落百姓規定も次第に減ってきました。(木村礎『近世の村』)

 前出の願書よりみても、村内に欠落人が出ると奉行所・地方役所は、欠落人の親類・五人組・村役人等に、欠落先を尋ねさせ日限調査を実施、百八十日間で尋ね出せない場合「永尋(えいたずね)」を命じました。この時点で欠落人は宗門人別帳(戸籍)からはずされ跡株(あとかぶ)(田畑・屋敷・家財産)の処分もありました。


問4 年貢割付状に中田十四とか下田十二のような数字が記されていますが年貢の掛率でしょうか。

  十四とか十三という数字は、石盛(こくもり)とか斗代(とだい)といわれたもので、近世、租税をかけるため、検地によって定められた耕地や屋敷地の反当りの収穫量をあらわし、石高をきめる基準となりました。この数字も地域や時代によって異なっていましたが、一般的な例で説明しますと、まず田畑の収穫量により、上・中・下・下々などの等級に分け、各等級ごとに一坪(約三.三㎡)の坪刈(つぼがり)を行い、その平均収穫量から収量を算出したものです。つぎに、実際のつけ方を説明しますと、ある田の坪刈をしたところ、一坪で一升(しょう)の籾(もみ)がとれたとします。一反にしますと三百倍ですから三石とれたことになります。この籾を精白し、白米が一石五斗となったとします(これを五分摺(ずり)という)。これだけの収量のある田を上田と決めたとき、一石五斗=十五斗の白米収量から上田石盛十五といいます。つまり十五斗の十五をとりますので斗代(とだい)ともいうわけです。上田が確定しますと中田以下は一般には二つ下がりで、中田十三、下田十一、下々田九と決定されるわけです。では、畑や屋敷はどう決めるかというと、上畑と屋敷は下田相当の十一に位置づけ、中畑以下は田と同様に二つ下がりとする方法がとられたようです。これらのことを詳細に記した書として、高崎藩の郡奉行であった大石久敬著の「地方凡例録(ぢかたはんれいろく)」がありますが、それによると地味の善悪や隣村とのかね合いをみることや各級の間隔も三下がりとしたり、上・中・下の三段階でなく、五段階や九段階に分けたりと土地々々に応じた方法がとられたといいます。石盛は収穫量の目安ですから、年貢はさらに、五公五民(五箇取(いつつどり))であれば、石盛十五の上田の貢租高はその半分の七斗五升となります。

※原文は縦書きで、漢数字などはそのまま表記しています。


問5 年貢割付状や年貢皆済目録の金銭表示の上に「永(えい)」という文字が記されていますが、どのような意味なのか教えてください。

 「永」は、江戸時代、年貢・物価表示の名目的な貨幣の計算単位のことです。

 1608(慶長13)年、幕府は永楽銭の通用を禁止しましたが、永の名目だけを金と銭の換算の便宜的な計算基準の呼称として残しました。金1両は永1貫文(かんもん)または鐚(びた)4貫文と規定しました。これを「永高の制」といいます。

 永1貫文=金1両=銀50匁=鐚4貫文です。また、田方米納・畑方永納などと言い、年貢の基準となりました。

  •  「永楽銭」=明の永楽帝の1411年に始鋳された銅銭。鋳造当初から日本に輸入され、室町時代以降標準的な通過として広く流通。特に、後北条氏は、これを精銭の2倍の価値で通用させたため、関東地方では以後これを標準とする永高の制が成立。

                                                   (角川出版社『新版 日本史辞典』1996年より)


問6 なぜ「文(もん)書(じよ)館(かん)」という名称をつけたのですか?

 かつてわが国では、関係法が制定されていないこともあって、当館のような機関では「文書館」「公文書館」「史料館」「歴史館」など、さまざまな名称がつけられてきました。いずれの施設も、歴史資料としての文書を収集・整理・保存し一般の人々に利用していただく目的をもった保存利用機関です。「文書」という文字には二通りの音韻があります。それは「呉音」と「漢音」です。呉音は、6世紀末以前に朝鮮半島を経て伝わった中国六朝時代の揚子江下流(呉)地方の発音です。漢音は、奈良・平安時代(7世紀以降)に遣唐使・留学生らにより伝えられた唐の長安・洛陽地方の発音です。呉音では「文書」(もんじょ)、漢音では「文書」(ぶんしょ)と発音します。一般には「文書」(ぶんしょ)といった方がとおりがよいのですが、学僧や、文章博士・音韻学者が、古い文意を含んだ遺(い)文(ぶん)を「もんじょ」といっていました。仏典読誦には呉音を使っていたのです。一般に、「もんじょ」と読む場合は歴史研究の史料としての「古文書」(こもんじょ)をさし「ぶんしょ」という読み方は、主として官公庁・役場などの「公文書」(こうぶんしょ)をさす場合が多いようです。そこで本館では古文書学の成果や史料の保存施設という意味を含め、古文書・公文書を包括して「文書館」(もんじょかん)と呼称することにしたのです。このような文書が散逸したり、廃棄されてしまいますと、史料にもとづく歴史事実も確証を欠くことになってしまいます。県立文書館は、これらの文章を永久に保存していく県民のための歴史の宝庫ともいえましょう。


問7 花押(書判)とはどんなものですか?

 平安中期以降にあらわれた署名の方法です。自分の名乗りを階書体で書いた場合を草名体(そうみょうたい)といい、それがさらに判読できないほど図案化されたとき花押(かおう)と呼ばれるようです。その使用者や類型によって、公家様、武家様、二合体、二別体、一字体、別用体などと分類されることもあります。ふつう、判、書判、とも呼ばれ、本来は自己の名乗りでありますから、単独で用いるべきですが、鎌倉期以降、「頼朝(花押)」のように並べて用いることも多くなりました。花押使用の目的は、本来印章と同じく文書に証拠力を与える意味で使用されるわけですから、自筆で書くことが必要条件ですが、中には右筆(書記役)が本文のみならず花押までも書いたり、後世の印鑑同様に型を作っておしたりするものがあらわれるようにもなりました。また、花押の字画を人の姓にあわせ、陰陽五行説などと関連させ、面倒な形式を生み出し、天文博士、僧侶、学者などに依頼作製されるものもありました。


問8 文書館には「坂本龍馬」に関する古文書はありますか。

 渋川市北橘町の根井(ねのい)幸江家文書の中にあります。安政4年(1857)3月1日に江戸の土佐藩上屋敷で行われたとされる藩主山内氏御覧の剣術試合に関する古文書に名前が出てきます(P9409 No122-51)。この古文書は、剣術の対戦表であると思われ、上段に肩書きとして門下生・出身地、下段に対戦者氏名、両者の肩書きの間には各々がとった本数が記され、計22組が対戦しています。その冒頭で、「斉藤門人 桂小五郎(のちの木戸孝允)」「土州 坂本龍馬」が対戦しています。桂には黒い点が3つ、坂本には2つあり、3勝2敗で桂が勝利したのでしょうか。桂は19戦目にも登場し、千葉門人斎田辰三郎と対戦しています。当日剣術修行で江戸へ出ていた根井家の人物(根井行雄か)は、この試合を実際に見ることはできなかったようで、この文書の最後に「残念千万」と記しています。他者からの伝聞であり、非常に残念がっている様子が窺えます。この御前試合が実際に行われたかどうか疑問視もされており、今後の研究にも注目です。文書の所蔵者である根井氏は、木曽義仲四天王のひとり根井行親の後裔であると伝えられています。義仲没落後に遺児を擁護して上野国へ移住したようです。幕末期に前橋藩医沼田一齋の仲介を経て根井家は木曽家に出入し、当主を「御館様」と呼んでいました。江戸時代になって平安時代以来の主従関係が復活するとは驚きです。幕末期の当主は剣術も行っていたので、このような文書が伝来したと考えられます。興味深いのは、根井家文書には「安政の大獄」や「桜田門外の変」「禁門の変」など幕末の動静を伝える古文書が多数存在していることです。ぜひご覧下さい。


問9 文書館に旧県庁(前橋城)の設計図のような建物の形状がわかる資料はありますか?

 『群馬県庁総絵図』が2点あります〔『群馬県庁総絵図』A0384A0G 439(M24)外寸103×146。『群馬県庁総絵図』A0387B0G 2785(M33) 98×151〕。ただし縮尺についての表記はあるものの、その他に広さ・大きさを示す情報はありません。上記絵図及び旧県庁(前橋城)の広さについては、『群馬県史』資料編21 P261に掲載があります。


問10 板倉町の『荻野貞雄家文書(H90-12-2近世)』の写真帳のようなものを先日文書館で見ましたが、古文書の実物も見ることはできますか? また、この文書群についての群馬大学が作成した文書目録を見せてもらいましたが、文書館の写真帳にない文書もその目録に載っていました。なぜですか?

 『荻野貞雄家文書』は、当館では所蔵しておらず、実物を見ることは出来ません。ちなみに「H」から始まる請求番号の資料は、「県史収集複製資料」といいます。『群馬県史』が編さんされた際に県史の各部会がマイクロフィルムに撮影し、後に所蔵者から許可を得て紙焼きにして公開している資料をさします。記号中の「近世」は、『群馬県史』近世史部会がおもに昭和50年代に調査し撮影したものです。他の文書群の中には調査・撮影後に当館に寄贈・寄託された史料もありますが、むしろHから始まる文書群のほとんどは当館には入っていない場合が多いです。大学の目録に掲載されているとはいえ、近世史部会が必ずしも撮影しているわけではありません。時には部会が調査に入った際には、既に文書が失われていた可能性もあります。


問11 群馬県内の江戸時代の巡見使について書いた論文等を教えて下さい。

 巡見使とは、江戸幕府の監察制度の一つで、幕領・私領を巡視してその政情・民情を復命させるために派遣した役人のことです。「諸国巡見使」と「御料巡見使」の2種類があり、一般によく知られているのは、諸大名の領地を対象に派遣された「諸国巡見使」のほうです。3代将軍徳川家光の寛永10年(1633)に始まり、4代家綱の寛文7年(1667)を経て、5代綱吉の天和元年(1681)のときから将軍の代替りの年かその翌年に派遣されるようになりました。群馬県内に残っている巡見使の史料も、多くは「諸国巡見使」に関するものです。県内の巡見使に関する論文や参考文献等には、以下のものがあります。

 ①今村和昭氏「幕府巡見使迎接における在地の馳走」(『ぐんま史料研究』第11号H10)が、県内の巡見使の動向について本格的に扱った論文です。特に幕府巡見使と迎える側の在地との関係について、延享3年(1746)と宝暦10年(1760)の伊勢崎町や天保9年(1838)の大間々町の事例を通して具体的に検証しています。「馳走」(接待)を行う町や村が巡見使迎接をどのように認識し、いかなる意義をもっていたかも明らかにしています。

 ②『群馬県史』通史編4近世1のP.355~359では、天保の巡見使の動向について詳細に紹介しています。なおその材料となった幕府側の記録「天保巡見日記」は、『群馬県史』資料編13にすべて翻刻されています。

 ③論文ではありませんが、当館HPのH22度収蔵資料展Ⅰ「街道をいきかう人々と宿場のくらし-沼田街道と森下宿を中心に-」が、森下宿(利根郡昭和村)を通過した天明8年(1788)の巡見使について扱っています。。